{ MBI-Kansai 2008 at Uji  }
(2008/11/29)




2008年11月29日(土曜日)、( MBI kansai 2008 at Uji "宇治に源氏物語千年紀を訪ねる”)が、
宇治「花やしき浮舟園」で開催されました。MBI関西イベントを歓迎するかのごとく、
すっかり色づいた紅葉が、秋晴れの陽射しに美しく映えた一日でした。




<イベント参加者の受付風景>
























<音楽の歓迎>

会場に入ると、参加者は大阪大学交響楽団カルテットによる音楽の歓迎を受けました。
このカルテットの第二バイオリンは吉野裕佳さんで、28期吉野幸夫さんのお嬢様です。
このカルテットはまた昼食時にも素敵な演奏を聞かせてくれました。



前段右側が吉野幸夫さんのお嬢さん。







<11時開会>

<桑原さんの名司会で、いよいよスタートです。>




「皆様ようこそいらっしゃいました。いい天気まで持ってきてくれて有難うございました(爆笑)。
第3回のMBI Kansaiのイベントですが、私は余生の地をここにしており、地元代表として
今回の企画に汗をかくことにしました。」




「また今日の山本先生の源氏物語の講演ですが、講演の後に質問の時間を設けています。
源氏物語は男性と女性で観点が違うと思うので、女性陣からも活発な質問をお願いします。」




続いて、MBI関西支部 川勝会長の挨拶がありました。



「今回でMBI Kansai-event は3回目となります。今回は日本文化、世界遺産の体験をテーマとしました。
今日は93名参加されていますが、関西以外から51名も参加され、盛況となりました。今、金融危機が問題となっていますが、11年前の1997年、私が住友銀行の営業部長だった時、金融危機を経験しました。これと同じことが今、世界規模で起こっています。1997年当時は米国、欧州は元気で、立ち直りに時間はかかりませんでした。今は同時不況になっています。金利の引き下げで潤沢な資金供給が必要。タンス預金でなく、お金を使い、需要を上げることが必要です。浪費はいけないが、役に立つお金の使い方が大事です。文化を知り、興味ある分野を知り、自己の成長に使うことが望まれます。今年は源氏物語の1000年紀です。自己体験し、味わうことが肝要です。ここ宇治は貴族の別荘地で、宇治十帖のゆかりの地。京都学園大学山本淳子教授に分かりやすく、時代背景を説明してもらいます。身近な話を通して平安京の世界を紹介していただきます。
今日は心いくまで、源氏物語に浸っていただきたいと思います。」




<招待講演:「道長の宇治・源氏物語の宇治」 >

さらに引き続いて、京都学園大学教授・山本先生から招待講演が行われました。





1. 源氏物語1000年紀

1)今は紅葉たけなわの京都。今年の1月に桑原さんに会いました。今年は1000年紀で盛り上がっています。今年は宇治に5回来ました。NHKラジオでも話しました。特に宇治では盛り上がりました。

2)どうして今年が1000年紀なのでしょうか?資料上、源氏物語ができたことを確認できる日付から1000年経っているためです。今から1000年前、紀元1008年に藤原道長が天皇に嫁いだ自分の娘(中宮 彰子)に初めての男の赤ちゃんが生まれました(注1:敦成親王(のちの後一条天皇))。その50日の誕生日の大パーティーが開かれ、紫式部も中宮彰子に使えていた侍女として招かれました。このパーティーに出席した中の一人に藤原一族の方がいました。藤原公任(きんとう)という方です。この方は時の政治の要職にいて、No.8のポジションでした。当時の政治は20-30人程の公卿が取り仕切っており、今の政府でいえば、藤原公任は閣僚ポストの一人になります。

3)この藤原公任は紫式部の源氏物語を読んでいて、パーティーに来ていた紫式部を探しました。探す時紫式部を「若紫」の名前で呼びました。これは、現代に当てはめると、2008年のあるパーティーに麻生総理が招かれて、その場に漫画家の「さいとうたかお」氏がいることを知り、「ゴルゴ13さんはいますか」と言ってさいとうたかお氏を探すことに例えられます。

4)1008年のこの事実が伝えられております。そのことから、源氏物語がこの時代に存在し、しかも藤原公任のような公達まで源氏物語を読んでいたことがわかります。そのため1008年をstartとしています。また11月1日は古典の日としています。

5)この生誕50日のパーティーでは道長はまだ摂政関白にはなっていませんが、既に時の権力者であり、既に異を唱えるものはいなかった。藤原公任も、紫式部が中宮の侍女であり、中宮の父親である藤原道長に敬意を払ったのでしょう。

2. 平安時代の京―宇治交通路

1)資料によると、道長も宇治には20回もきている。お気に入りの場所だった。当時、京都から宇治に入るには2つのルートがあった。ひとつは京都の東の端、六条河原から大和大路を南下し、木幡山を抜ける山のルートがあった。これは目立たない道であり、源氏の貴公子たちがこっそりと女性に会いに通う道だった。

2)道長が好んだのは左の道で東三条―伏見津を通り、巨椋(おぐら)池(注2)を通るもの。この池は全長16 Kmで、面積は8 Km2、深さは1 m程であり、当時は、池というより低湿地帯のようなものだった。

3)この時代はこの池を通る、「伏見―平等院」ルートがあり、舟の中で、お酒を飲んだりして通った。道長の時代、平等院は寺にはなっていなかった。宇治の院と呼ばれ、源融(みなもとのとおる)という人の豪邸だったが、道長が財力で買い取ったもの。

4)この源融は光源氏のモデルの一人といわれている。天皇の子息でありながら、親王にはならず、一般の人となり政治をとった。

5)京都の嵐山・嵯峨野は日帰りで楽しめる。しかし、宇治に来るには1泊必要になり、大掛かりな旅になる。





3. 藤原道長の宇治

1)(当日配られた添付の資料II) 時は1008年9月20日。現代の暦では11月12日になる。温暖化の影響がない当時ではこの時期はとてもモミジがきれいだったと思われる。(笑い)

  2)夜9時には月が上った。当時の教養の格式は漢詩が一番で、次が和歌。(物語はsub-cultureだった)漢詩も連句であり、5つ、7つと、みんなで作り、即興で楽しんだ。藤原道長の漢詩には「夕暮れの雲…ああ、都から遠くにきたものだ」「質素な門。月はその上に静かに上り、人は霜の色に包まれて眠る」と続く。本当は豪華な別荘で、全然質素な門ではないが、謙遜し、詩を書くときには「質素な門」のほうがいい(笑い)。宇治川の川音を聞き、旅愁に浸った。中国の詩人のような気分だったのだろう。

3)この情景は1004年前のこと。源氏物語には宇治の地がスパイスのように恋愛の邪魔の地のように書かれている。

4)光源氏は天皇を通り越して、上皇経験者になった。会社でいえば、社長を通り越して、会長になったようなもの。しかし、妻にも密通されてしまう。そうして、人間として大きくなっていく。





4. 源氏物語の宇治

1)宇治十帖には主要な人物が5人いる。(当日配られた添付の資料III参照)匂宮は色好みで情熱家。自分で女性をみつけ、口説く。しかしここまで。

2)薫は生まれながらにいい香りがすることから薫と名がつけられた。光源氏の表向き二男。光源氏が40歳の頃、15歳の内親王を妻にする。しかし、妻が密通し、薫が生まれる。薫は自分の出生の秘密を知り、悶々として成長する。どうして生きていったらいいのかと人生の迷う人物。仏教に救いをもとめる。

3)八の宮は8番目の息子。しかし政治的に不遇。妻にも先立たれ、京都のお屋敷も火事で全焼する。宇治に仮住まいするが、そこに居ついてしまう。この八の宮には二人の娘がいた。大君24歳と中の君22歳。薫は22歳。大君は美しいが、結婚拒否症で、自分が結婚したら妹はどうなる、と恋はしないとはっきりと言う。

4)薫は八の宮に泊まり、大君のところに忍んでいく。しかし大君は妹の中の君を寝所に残し、逃げてしまう。薫は中の君には何もせず、話をしながら一晩明かす。

5)妹を嫁がせば、頑なな大君も心変わりするだろうと、匂宮を中の君に紹介する。匂宮は即、中の君と関係してしまう。しかし、匂宮は皇太子なので、動きがとれない。宇治に会いにこようと思うと、大イベントになってしまう。

6)そうしている間に大君は病気になり、1ヶ月で亡くなってしまう。薫はどうすればいいかと、中の君に会いにゆく。中の君は苦し紛れに、実はもう一人妹がいると打ち明ける。八の宮は姪と子供をつくったが、姪はお役人と結婚し、常陸の国にいった。この子供は最近戻ってきていた。浮舟という名。薫は浮舟と結ばれる。

7)実は匂宮は一度浮舟にあったことがある。匂宮は浮舟とも関係を結んでしまう。これが薫の知るところとなる。「恋の深みを知ったね」というような手紙を出している。絶望した浮舟は宇治川に身を投げ出そうと失踪する。気を失って倒れ、通りがかった僧都に助けられる。比叡山のふもとの聚楽園あたり。浮舟は記憶を失い、山荘に1ヶ月ほどすごす。少しずつ記憶が戻った浮舟は、僧になり、二度と恋はしないと決心する。

8)浮舟らしい方がいるという彼女の消息が薫の知るところとなり、浮舟の弟を浮舟のいるところに使いにだす。しかし、浮舟は、自分は探している方ではないと拒絶し、これが最後の話となる。

9)辻褄の合わないのが薫という人物像だが、人間は変わるものという見方。浮舟も変わる人間。浮舟は主体性のない女性で、身を捨て、出家し、出家してから分かったようなもの。また脇役の浮舟の母も人間的。八の宮に捨てられ、リベンジしたいと願う。

10)どうして宇治が選ばれたのか?焼け出され、どのような気持ちで来たのか?皇族は儀式、式典のためにいる。これが仕事。八の宮は本来は都を離れるわけにはいかなかったが、儀式・式典の話もなくなったのであろう。

11)浮舟は最後は自殺することになる。匂宮とは3回関係する。光源氏なら、お忍びで行った相手のところは夜明け前には帰っている。匂宮は夜が明けても帰らなかった。最初の一泊は薫を装い、周りを上手く誤魔化せた。匂宮は再度宇治川の向こう岸にある自分の別荘に浮舟を連れてきている。

12)薫は浮舟のところにはあまり来てくれなかった。いつも部屋から宇治川をみて、小舟を見ていた。当時は宇治川はもっと流れが急だったのであろう。(「年経とも変はらむものか橘の小島の崎に契る心は。」 「橘の小島の色は変はらじをこのうき舟ぞ行くへ知られぬ」)

13)源氏物語には795もの歌がある。これが一番好き。「いづくとも 身をやる方の 知られねば うしと見つつも ながらふるかな」





5. 紫式部最晩年の境地=うし(宇治)

  1)川の流れは人生そのもの。紫式部にとっても宇治は大切だった。ところで、当時は「うし」と書いて、濁点がなかった。(濁点が付くのは室町時代からで、濁点が4つもあったときもあるほど。)「宇治」は「うし」であり、「憂し」を思い浮かべたのであろう。紫式部最晩年の人生観だったのであろう。

2)紫式部の人物の研究。彼女は幸せだった夫との生活も3年で夫に先立たれている。紫式部の母の記録がない。多分物心がつく前に母は亡くなっているのであろう。姉も死別。また親友で姉とも呼ぶ人とも死別。これで、人生は無常、人は「ははかないもの」、「つらいもの」であったであろう。

3)源氏物語巻末の歌。初雪、雪みたいに死んでいるではないの?という友人の安否気遣いにも「雪みたいに、がんばってはいますよ」と返事している。

4)源氏物語を味わい、人生の想いに浸っていただければ、うれしいです。



質問の時間


質問 1(米澤さん)
山本先生の話し方も上手く、感服いたしました。自分は大学の先生をしていますが、授業中半分は寝ています(爆笑)。(山本先生からは「生徒さんがよかったのでしょう」とのこと(笑い))
光源氏の人間像。皇族をやめて役人ということですが、何をしていたのですか?収入源はなんだったのでしょうか?





(山本先生のお答え)
昼は何をしていたのでしょうか?ということですが、「源」という姓は、皇族を離れたことを意味しています。皇族には姓がありません。紀宮様は結婚されて「黒田」という姓がつきました。なぜ皇族を離れるかということは、平安時代でも国家予算の問題がありました。例えば嵯峨天皇には男子27名、女子22名、合計49名もの子がいました。このまま子供全員が皇族になると、次世代には2,500人にもなるということになります。そのため、自分で生活してくれというもので、源、平、在原というような名前がつきました。一番位が高いのは源流という意味からも源でした。

官僚の道ですが、みなそれぞれ仕事がありました。光源氏は近衛中将という役職でした。天皇の近くを守るというのが本来の意味ですが、お祭りに馬に乗って舞を舞う、というのが仕事でした。光源氏の舞が素晴らしいと絶賛されましたが、これは仕事をしているということです。道長もまったく同じことをやっています。太政大臣となって摂関政治をしています。

収入ですが、左大臣ですと国から今のお金で4億円くらいの収入がありました。上皇に匹敵する光源氏ですと8億円くらいはあったのではないでしょうか。それに加え、荘園から上がる名産品もあります。そんなことですから、同情に値しない人物ですね(爆笑)。人との関係、はかなさでは、光源氏も紫式部と同じ人生だったといえます。


質問2 (川内さん)
先生の本を読みました。とてもスラスラと読めました。意識という世界と本質の世界を対比して、浮き彫りにして書かれたのではないでしょうか?

(山本先生のお答え)
私が源氏物語が好きだったのはこれがあるからです。人というのは現実に縛られています。人に死なれて辛い。どうかしようとはできない。「身」というのがあります。これが心の底から思い知らされています。サラリーマンの身、女の身。現実を背負って束縛されています。しかし「心」というものがあります。つらいと思っていたが笑っていた。心はまた自由です。どんなに辛くても、光源氏のように作れます。亡くなった夫を思い出すこともできます。心を生きる ? これが紫式部の世界になりました。





< 昼食会 >

ご講演後、司会から菅野さんのご紹介があり、菅野さんの乾杯で昼食会が始まりました。





< ここから、なごやかな懇親会の始まりです。 >




























































< MBI同窓会・吉田会長(20期)の中締めの挨拶で、昼食会はお開きとなりました。 >




< そしてイベントの最後は、恒例の記念撮影です。 >








イベント行事が終了した後、会場となった浮舟園から宇治平等院までの短い散歩をしました。

桑原さんが事前に参加者全員分の平等院の拝観チケットを確保してくださっていたので、全員がスムーズに入場できました。また、天気にも恵まれ、宇治平等院の最後の紅葉が楽しめました。

当時の平等院を再現したコンピューターグラフィックスによれば、建立された当初の平等院鳳凰堂は、本尊を安置する須弥壇が螺鈿や飾金具で装飾され、周囲の扉や壁は極彩色の絵画で飾られ、天井や柱にも彩色文様が施されていたそうです。今からは想像できないくらい、彩色豊かだったようです。金色の阿弥陀如来仏像に、上の壁には楽器を奏で、舞いを舞う姿の供養菩薩像の金色の浮き彫りがあり、当時の貴族が描く西方極楽浄土のイメージはこのようなものだったのでしょうか。天井や壁にはめられた螺鈿や装飾具が境内の少ない光を反射させ、光り輝く空間だったのでしょう。















< 特別付録: 史跡ハイキング 「石山寺に源氏物語を訪ねる」 >

イベント翌日(11月30日)の石山寺ハイキングは、少し寒かったものの好天に恵まれて、瀬田川の風景と紅葉を楽しむことができました。石山寺もちょうど紅葉真っ盛りで、見事でした。16名の参加者全員が時間どおりに集合、トラブルもなく行程を歩きとおし、帰りも時間通りという理想的なスケジュールで進みました。

宇治川の上流、下流で源氏物語宇治十帖に触れるという試みは、皆さんに喜んでいただけたようです。紫式部の像は、宇治川のほとりに1体、石山寺の本堂と境内に各1体あり、それぞれ見比べると、宇治にあるものは愛嬌があり、石山寺本堂の像は理知的で愛らしく、境内のものは日本的な美人、それぞれ趣があり、面白かったと思います。









以上で、第3回MBI関西イベントのすべての行事が終了いたしました。
末筆ですが、MBI関西支部を今後とも宜しくお願い申し上げます。


イベント記事執筆: 山内 眞也 (29期、大塚製薬)
写真撮影&HP編集: 伴野 国三郎(27期、村田製作所)



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