[第3回関西MBI史跡ハイキング - 山の辺の道]
(2003/06/01)



6月1日(日)、季節外れの台風が通過した後、梅雨前線を呼び込んで、どんよりと曇った肌寒い天候になった。京都駅でYuさんとみやこ路快速に乗りこむと、反対側に座った人がじっとこちらを見詰めている。目と目が合って挨拶しそうになった。え、この人はだれだっけ、そう思いながら、気まずい沈黙が過ぎた。「あの、Yoさんですね。」ああ、この人が初参加のIiさんかと合点した。奈良駅で乗り換える時には、奈良在住のYzさんご夫妻の他は、すべてのメンバーが揃っていた。桜井線柳本の駅で、Yzさんご夫妻と合流し、とりあえず、駅前の案内図をバックに記念撮影である。

山の辺の道観光案内図



まずは、コースを確認。



とりあえず記念撮影。



さらに、もう一枚。


柳本の町は、歴史から取り残された昭和30年代のようなたたずまいで、商店街も店らしい店がない。大阪から1時間足らずのところにこんな古い町が残っているのは、驚きであった。しばらく北に歩くと、五智堂に着いた。四角形で真ん中の柱で支えてある奇妙なお堂である。四方の柱は、後世に補強のためにつけたものらしい。「へえ、これが重要文化財。」だれかが声をあげた。国の重要文化財が、無人で道端にぽつんと立っている。こういう贅沢さは奈良ならではのことである。

五智堂にて



五智堂から東に向かってあるくと県道に出る。道の向こうに大きな前方後円墳が見える。「あ、これが崇神天皇陵か。」という声がした。それにしては方向がおかしい。地図を見ると、この巨大な古墳は、陪塚に過ぎないことがわかった。信号のところで、Oさんが、右手の「黒塚古墳資料館」という看板を見て、行きたそうにしている。「行ってみますか?」という言葉とともに、計画を変更して見に行く事にした。黒塚古墳は、全長百数十メートルの巨大な古墳で、大量の三角縁神獣教が出たことで知られる。資料館は非常に立派なもので、レプリカではあるが、鏡などの出土品、石室内部が忠実に再現されていた。「これが無料とは安いなあ。」そう思いながら、Oさんと「鏡の細かい紋様はどうして作ったのか。」という話になった。横に砂型で作ったレプリカがおいてあったが、どう見ても紋様が荒い。Oさんとは「金型でしょう。」という話になった。古代に精密加工の技術がない、というのが砂型説の根拠であろうが、古墳の築造、仏像の製作を見ても、驚くほど進んだ技術が古代にあったに違いない、と思わせた。Oさんと黒塚古墳に登って、戻ってくると、鏡の番号はどうしてつけるのかが議論になっていた。32号は「黒塚で見つかった32番目の鏡」か「鏡の形式の32号か」というのである。これは、後でわかったことだが、「番号は鏡の形式」というのが正しかった。同じ鏡がたくさんあちこちで出ているらしい。それにしても、鏡には四神が描かれており、仏教以前に道教が日本に入っていたことになる。


コースに戻って長岳寺を目指すと、右斜め前に、ひときわ大きな前方後円墳が見えてきた。まるでこれは小山である。これが崇神天皇山辺道勾岡上陵であった。全長二百五十メートルはあるらしい。

右前方に崇神天皇陵。



古墳を横に見て道を東にとると、やがて真新しい木の建物が見えてきた。どうやら天理市の運営する無料休憩所らしい。お茶を勧めてくれたり、パンフレットをくれたり、非常にサービスがいい。

無料休憩所で。



休憩所を出ると、長岳寺はすぐそこである。参道のツツジをみて、あっと思った。そういえば、長岳寺はツツジの名所だった。あと2週間早ければ、そう思うと残念であった。拝観料300円を払って中に入る。古いお堂に阿弥陀三尊が鎮座している。どれもこれも重要文化財らしい。住職らしい人が説明しながら「何百万だして車を買っても5−6年、お寺に寄進すると、何百年も名前が残りますよ。」と言っていた。素麺を食べさせたり、あまり経営が楽ではないようだ。裏山の石仏、庭園、建物、どれをとってもみごとなもので、今度はツツジの季節に来ようと思った。

長岳寺



長岳寺石仏



長岳寺楼門



路傍の石仏



山の辺の道に入るまでにずいぶん時間を費やしてしまったが、これからがハイキングの始まりである。崇神天皇陵の周濠に沿ってあるいていく。右手に濠を見ながら歩くとやがて左手にも大きな池が見えてきた。日本唯一の双方中円墳、櫛山古墳の濠である。山の辺の道は道標が完備していて非常に歩きやすく、道端には野菜の無人売店があって、みんなそれらを楽しんでいる。大抵が100円で、袋詰してある野菜や果物を、勝手にとって、お金を入れていく方式である。元々は浄瑠璃時あたりでよく見られたが、最近は奈良のあちこちでやっている。
やがて、右手に古墳が見えてきた。景行天皇山辺道上陵である。全長三百メートルというから、山の辺道最大である。あまり大きく見えないのは、濠が小さいのと、形が若干崩れているためかもしれない。大和三山や二上山を見ながら、黙々と歩いていくとやがて道は舗装路の登りになり、穴師坐兵主神社の手前から、三輪山に沿ってあるく山道になった。

櫛山古墳の周濠をめぐって(1)



櫛山古墳の周濠をめぐって(2)



二上山を望む。



三輪山を望む。



ええと、ここはどこ?



無人の店で買い物


「いつ、食事ですか?」誰かが言う声が聞こえた。誰からともなく、「桧原神社についたら食事」ということになっていた。 桧原神社は小さいけれどもすがすがしい清潔な場所である。神社の鳥居の向こう、はるか西の方角を見ると二上山が顔を出している。無実の罪で自害させられた大津皇子があの頂きに祭られている。桧原神社の参道が二上山の方角を向いているのは、皇子の鎮魂の意味もあるのだろうか?石垣に腰をおろして、各々勝手に食事をはじめた。運動した後のおにぎりのおいしいこと、久しく味わっていなかった気分である。「石垣の前の石畳はなに?」Iiさんが聞いた。「これが山の辺の道でしょう。」「ああ、これが。」このあたりでは、それほど、道は細い。この付近を歩いていると、西側が開けた場所では、大和三山の円錐形の山容が美しい。右手が耳成山、中央の背の高いのが畝傍山、左のやや平べったいのが天の香具山である。香具山だけがなぜ「天の」とつくのかが不思議である。

桧原神社の鳥居と二上山



大和三山



そんなことを考えていると、やがて大神神社に着いた。大神と書いて「おおみわ」とは誰も読まないだろう。オオナムチ、オオモノヌシ、スクナビコナといった国津神を祭った神社で、大和一ノ宮である。当時から大和一ノ宮ということは、日本一の神社というのと同じである。征服された国津神の神社が一番尊崇されているのは奇妙である。ここで、また記念撮影である。

大神神社(1)



大神神社(2)



大神神社(3)


山の辺の道は、大神神社を横切るように続いていて、しばらくすると平等寺につく。ここは、神仏混合の時代に、大神神社と対になっていた大寺で、明治の廃仏毀釈の時に破壊され尽くしたのは残念である。その向こうには、過去仏の釈迦、未来仏の弥勒を彫った「金屋の石仏」がある。昔は小さなお堂だったが、盗難や破壊を恐れてのことか、鉄筋の立派なお堂になり、鍵がかけられていた。少し先の海石榴市(つばいち)観音もそうであるが、立派なお堂が何となく雰囲気にそぐわない。海石榴市は、古代の交通の要衝で、山の辺の道、初瀬街道、磐余道、などが合流していたところで、今でも古代人が街角から姿をあらわしてもおかしくないようなたたずまいである。

つばいちでやれやれ



初瀬川に出ると、「仏教伝来の地」という大きな石碑がある。大阪湾からこの川を上って、仏教や大陸文化が伝来した、ということを、この地に立って思うと、自分が歴史の主人公になった気がするから不思議である。このあたりから見る三輪山は、姿が少し崩れてみえるものの、新緑となだらかな山容が美しい。

仏教伝来の地の碑の前で



道を南にたどるとやがて桜井に着いた。出発から5時間、距離約12km、よく歩いたものである。歩く楽しさを久々に実感した一日だった。季節を変えて、また来たいと思う。



参加者(50音順)
飯村さん
居谷さん
上田さん
大倉さん
山内さん
山崎さんご夫妻
吉野


報告者 吉野
HP編集 伴野


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