[ 第8回史跡ハイキング報告: 琵琶湖疏水を下る ]
(2004/9/20)



2004年9月20日、長期予報では雨の予想が前日に一転して晴れの予報になった。そう思っていたら、朝方、雨音で目がさめた。出かける頃には晴天だったので、今朝の雨は夢かと首をかしげていると道路が濡れている。かなり激しい雨だったようだ。それにしても、MBI史跡ハイキングは、「際どいところで雨が降らない」というのが慣例になってしまっている。

JR南草津の駅に着くと、Tさんが後ろから声をかけてきた。Tさんはここ数回お休みだったので久し振りの参加である。「お久しぶりですね。」「うん、最近ばたばたと忙しくてね。」どうもTさんは、最近はご自分の趣味の方で忙しいようだ。乗り換えの為にJR山科の駅で降りると偶然Nさんと出会った。途中でNさんと偶然会うのも3回連続だ。どうやら、これも慣例になりつつある。京阪山科から京阪四宮(しのみや)までは、京阪電車京津線で一駅である。

計画よりも一つ前の電車に乗り、四宮の改札口で待っていると、IさんとKaさんが駅と反対側の道からやってきた。おや、どこから来たんだろう、忍者みたいだな、そう思っていると、どうも、Iさんが山科から歩いて、途中で見つけた路傍の地蔵尊をKaさんと見に行ったということらしい。「今回は何人ですかね。」などと話していると、今度はKuさんがまた思いもかけない方角から出現した。「ええ、どうやってきたんですか?」皆が驚いていると、どうも奥様が車で送って来られたらしい。程なく、OさんとYaさんが指定の電車でやってきた。「ええ、もう一人いるぞ。誰だろう。」どうも今日は朝から謎が多い。ともあれ、9人揃って駅前で恒例の記念撮影をした後、琵琶湖疏水に向かって出発である。

まずは、四宮駅で記念写真(1)


四宮駅で記念写真(2)


坂を登っていくとほどなく満々と水を流している疏水についた。流れがずいぶん速い。「疏水がトンネルから出てくるところが見たいですね。去年は琵琶湖側から見たんだから、逆も見ておかないと。」Iさんが、さっさと今日のコースの逆方向に歩き始めた。遅れまいと後に続いて、Iさんと話をしながら懸命に歩いていく。しばらくしてふと後ろを見ると、Kaさんしかいない。皆、どうしたんだろう。少し心配になりながら、それでもトンネル見たさに足を進めていった。途中でであった人にIさんが「トンネルまでどれくらいですか?」と聞くと、100メートルほどだと言う。たっぷり100メートル歩いても、疏水ははるか先まで続いている。もう一人に聞くと、また、100メートルほどだという。本当か、と思いながら歩いていくとたっぷり倍はあった。疏水の周囲は桜と紅葉の巨木が連なっており、100年という月日の重みを感じさせている。トンネルを見て、引き返すことにした。Kaさんの携帯電話が鳴った。「お待ち申し上げている」とのことで急いで舞い戻った。これが往復で2500歩あったらしい。皆さんが待っていてくれたのは、一灯園の前である。一灯園というのは、Oさん曰く仏教系の新興宗教で、なんでも、さる大手企業が研修につかったりしているらしい。

満々と水を湛える疏水に到着(山科四宮)


トンネルに入る前の疏水池(一灯園前)


さて、ハプニングの後、いよいよ蹴上に向かって琵琶湖疏水沿いに下っていく。どう見ても水の流れの方がはやく、Iさんの計測によると、平均時速8キロぐらいで流れているらしい。ところどころに川幅を広くしてあったり、トンネルがあったり、結構、変化に富んでいる。疏水の周囲は昭和53年頃に「東山自然緑地」として整備されたらしく遊歩道が完備している。散歩やジョギング、自転車など、思い思いに人が楽しんでおり、生活に密着している様子が伺える。自転車でとおりすぎていった人が、肩に小動物を乗せていた。しばらくしてその人が休憩していたので、Kuさんが「その動物はなんですか?」と尋ねると、リスの一種だという。ただ、顔を見ていると、どう見てもいたちかその類で、身体もリスにしては大きすぎる。そう思ったがあまり詮索するのも失礼なので通り過ぎることにした。

思い思いのスタイルでウォーキング


疏水沿いに咲く秋の花々


疏水は延々と続いており、ひたすら歩いていく。Oさんの隣になったので、初参加の謎の人物について聞いてみた。「ああ、あの人は、同期のKsさんですよ。」、それで納得した。Ksさんはかなり歩きなれている風情がある。歩きながら、ふと左を見ると山科ブライトンホテルがあった。「ええ、まだ、山科か?」、疏水が等高線に合わせて蛇行しているために、かなりの距離を歩いても、直線ではあまり稼げないようだ。朝からの雨が上がって湿度が非常に高く、汗を全身にかいている。いい加減、疲れてきたところで、右に「毘沙門堂」の道標があった。行く手はかなりの坂道である。ちょっとパスしたいな、そう思ったが、Oさんは毘沙門堂を目指していくつもりらしい。よたよたと皆の後をついていく。周辺は閑静な住宅街で、しかも四十七士の髻を葬ったお寺があったりして、なかなか興味深い。

毘沙門堂門前


やっと毘沙門堂についた、そう思ったら、今度はいやになるほど急な石段である。朝の雨で濡れて滑りやすくなっており、おまけに階段が狭く、ちょっとスリルがある。お寺ではこれも修行なんだろうか?唐様のちょっと派手な門をくぐると本堂があった。庭と襖絵は拝観料500円、本堂は無料と書いてあったので、かまわずに入ってみていると、後ろから「おーい、Yさん、拝観料を払ってくださいよ」と誰かの声がした。今日は体調が悪いので拝観はパスしたいんだけど・・・、そう思っていると、皆さん拝観するらしいので、私もとにかく500円払って、ふらふらと後をついていった。

お寺の中は、さすがに涼しくすがすがしい。これはいったい何故なんだろう。境内の広さと木々が温度を下げるんだろうか?廊下を歩いて、天井に描かれた狩野派の竜を拝観した後には、体調はすっかりよくなっていた。仏様のご利益だろうか?渡り廊下の向こうにある震殿の襖絵は、動くだまし絵として有名でNHKでも紹介されたらしい。遠近感と角度を上手く使った方法で、そう思って見ると動いているように見えるから不思議である。庭はさすがに京都の寺らしく、東山を借景につかって、季節の華やかさと幽すいさを感じさせる。案内の僧侶によると、毘沙門堂は元々京都市内の京都市北区出雲路(地下鉄鞍馬口の少し東)にあり、徳川幕府の保護を得て山科に移されたらしい。天海僧正の庇護とも言われている。そういえば、山科は明智光秀が最後を遂げたところであり、その地に天海僧正がこの天台宗の寺を移築したというのは、偶然だろうか?そんなことを考えていると、説明のお坊さんから天海僧正=明智光秀説が飛び出してびっくりした。天海=光秀説は、詳細は省くが、そう考えることで歴史上の事実がもっとも矛盾なく説明できる点で説得力がある。

いろんなことを考えながら毘沙門堂を後にし、すぐそばの山科聖天に向かった。小さなお寺で正面には不動明王が・・・。あれ、ここは聖天さんじゃあ、そう思ってよく見ると、山門の右手に大聖歓喜天のお堂があった。中は暗くてよく見えない。もっとも、大聖歓喜天は2頭の象が抱き合った姿で男女和合をあらわしており、むやみにみるものではないとされているので、こうい祀り方をされているのかもしれない。

山科聖天


拝観を終えて、狭い山道を降りていくと、ほどなく疏水に戻った。この後、また疏水を離れて天智天皇陵にいく。石段を下っていくと、右手が天智天皇陵になっている。驚くほど広い御陵である。さすがに平安京の開祖、桓武天皇の先祖として祀られているだけのことはある。かなり下ってから右手の細い道を入ると、御陵への参道に出た。それをまた登って、やっとのことで参拝所に着いた。石碑に「天智天皇山科陵」とあった。「山科じゃない御陵もあるのかい?」誰かが言った。それにしても、なんで山科なんだろう。この時代、平安京はまだない。しかも山科は日本書紀などでは天智天皇にゆかりの地ではない。御陵を作るなら大津京に作るのが自然である。この話を説明するのに不思議な伝承がある。それは、天智天皇が山科に狩に行き、そのまま戻らなかったというものである。行方不明になったと思われる場所には沓だけが落ちていたらしい。現在の天智天皇陵は、別名「沓塚」といい、遺品の沓だけをおさめてあるとの伝承もある。そんな余計なことを考えながら、来た道を疏水に戻っていった。

天智天皇山科陵


もういい時間である。「本圀寺で食事にしましょう」というOさんの掛け声に勇気付けられて、必死になって歩いていくと、行く手に朱塗りで金ぴかの宝珠をおいた橋がかかっている。いやに派手な橋、と思っていると、これが本圀寺への橋であった。寺に向かうと朱というよりは、紅色に塗った山門があった。何これ、そう思いながら境内に入ると、工事の人が数人居る以外はまったく人気がなく、コンクリート作りの本堂と、金ぴかの鐘、加藤清正を祀る神社は金ぴかの鳥居、これが歴史のあるお寺だろうか。そういえば、あの橋、どこかで見たことがあると思っていたら、どうも「千と千尋の神隠し」にあった橋によく似ている、境内に人気のないところも・・・。陽の明るさが妙に不気味で、早々に引き返すことにした。帰ってから調べると、本圀寺は種々の事情があって昭和46年に西本願寺の隣から移転したらしい。かなりの建築は移築されたが、本堂などは新しく作られたということだ。

朱塗りで金ぴかのいやに派手な橋


黄金の釣鐘を持つ不思議な寺


疏水の横の公園で昼食をとる。どうも、疏水の周囲は日当たりが悪く、気分爽快とはいかないものの、とにかく腹ごしらえをして元気が出てきた。昼食を終えて御陵(みささぎ)の駅まで下っていく。ふと見ると疏水の横に古びた奇妙な洋館があった。「江戸川乱歩の小説に出てきそうですね」「横溝正史でしょう」推理小説好きの人は勝手な想像をめぐらしている。御陵から蹴上までは地下鉄で移動する。冷房のきいた地下鉄駅構内は生き返るようであった。

蹴上の駅から山手の道を通って、疏水トンネルの出口に到着した。その辺り一体は疏水公園となっていて、疏水に関連する様々な歴史的記念物が配置されている。日本発の水力発電所、インクラインの船の跡、琵琶湖疏水の設計者田辺朔郎の銅像を見た後、南禅寺水路閣に出た。水路閣は芸術的ですらあり、よくこれだけのものを作ったものだと、明治時代の活力を感じるデザインであった。

山科トンネルを抜け京都蹴上に辿り着いた疏水


インクライン装置と船


田辺朔郎像の前で


田辺朔郎像


南禅寺水路閣1


南禅寺水路閣2


南禅寺水路閣3


その後、琵琶湖疏水記念館を見学し、あらためて疏水を計画した人の先見性、情熱を感じることができた。設計者の田辺朔郎は、大阪の地下鉄や北海道の鉄道敷設などにも功績があり、明治の土木事業の祖ともいえる存在であったらしい。記念館を出たところで、疏水の運河をバックに記念撮影を行った。暑い中、やれやれやっと完走といったところである。参加者数人の方の万歩計は17000余歩だったらしい。

疏水工事のために作られたレンガ工場(山科)


疏水のトンネル工事風景


田辺朔郎


疏水終点(京都動物園前・疏水記念館)


記念写真1(疏水終点にて)


記念写真2(疏水終点にて)


今回の史跡ハイキングは、琵琶湖疏水をテーマに、明治という時代をあらためて見直した一日であった。昨年、滋賀県側の疏水を見、京都側を見たことで一通り終わったと思っていたら、まだ、松ヶ崎にいく疏水の分線、鴨川運河があった。これはまたの機会にしたい。 今回、このハイキングを企画してくださった大倉さん、ありがとうございました。


「完」


参加者9名(50音順、敬称略)
飯村
大倉
加島
川勝
桑原
伴野
成田
山内
吉野


報告者 吉野
HP編集 伴野


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