[ 第9回史跡ハイキング報告: 初冬の西の京を歩く ]



日時:2004年12月12日(日)
天候:曇り
参加者:5名(50音順、敬称略)
飯村
大倉
成田
山崎
吉野


 昨日は見事な快晴であったのに、今日は朝から曇り空である。ただ、午後からは天候が崩れてくるらしい。相変わらず降りそうで降らないMBI史跡ハイキングだ、と、出かけるとき思わず苦笑してしまった。近鉄西大寺のホームでOさん、iさんと出会った。今回は参加者が5名と、いつになく少ない。メンバーの何人かに海外出張があったりして、なかなか日程があわなかったこと、年の瀬で皆さん忙しかったためかも知れない。西大寺で橿原線に乗り換えて、西ノ京で降りると、Nさん、Yさんと出会った。「これだけですか。」「ちょっとさびしいですね。」と言いながら、コースガイドの看板を背に記念撮影を行った。

まずは、西ノ京駅で記念写真(1)



もう一枚、記念写真(2)



 「ハイキングは一人でもできますから・・・。」と強がってはみたものの、やはり人数が多いほうが楽しい。駅を出たところに「薬師寺」と書いた矢印がある。「こっちですよ。」「いや、そちらから行くと裏からになるので、向こうを回りましょう。」ということになり、矢印と反対の方向、近鉄の線路をわたって、正面に回ることにした。12月とはいえ、奈良は暖かく、まだ晩秋の余韻をそこここに残している。線路の向こうに木々の隙間を通して、薬師寺の西塔が見え隠れしている。やがて線路を渡りなおして正面、南大門についた。拝観料は500円、意外に安い。奈良のお寺の拝観料にはいつも驚かされるが、薬師寺は良心的である。

 境内に入ると、両側に裳腰をつけた三重塔があり、真ん中に大きな金堂がある。境内は「あれ、薬師寺ってこんなに広かったかな?」と思うくらい広々としている。どうやら、いつもは人で溢れているのに、今日は驚くほどひと気がないためらしい。がらんとした境内を見ていると、12月というだけで観光客が来なくなるのはなにか不思議な気がする。そのおかげで私たちはこの上ない贅沢な環境で拝観ができることになった。両側の塔、右手は東塔、白鳳から天平にかけての日本最古級の木造建築である。一本の釘も使わずに建ててあるらしい。昭和になって解体修理をした時に組み方が分からずに3本木が余った、という冗談を、以前、薬師寺のお坊さんから聞いたことがあった。まさかそんなことはないだろうが、これだけ複雑繊細かつ優美な建築物をよく1300年の昔に建てたものだと思う。左手、西塔の方は、焼失していたのを昭和になって再建したものである。こちらは「青丹よし」の枕詞のままに緑と赤で見事に彩色されている。寺は元々極彩色が基本である。この大建築をみた奈良時代の人の心情は、さながら近代的な高層ビルを初めて仰ぎ見るような気分だったかも知れない。

東塔1



東塔2



金堂は江戸時代に建立された小さなものであったが、やはり最近、白鳳様式で再建された。材木は台湾桧が使われており、その一部が再建の記念に残されている。どうも、日本ではこれほどの金堂を作る材木が入手できないためであったらしい。そんなことを考えながら、金堂に入ると、本尊の前で若いお坊さんが拝観者を集めて説明をしていた。奈良の寺は元々が官立で「学問寺」であった。だから檀家がなく葬式はしないのだそうだ。言われてみると確かに薬師寺や東大寺、興福寺には墓地が見当たらない。例外は元興寺であるが、ここは奈良時代、平城京の冥界への入り口であったのだから仕方がない。 本尊の薬師如来は、脇時の日光、月光菩薩と共に白鳳時代とも天平時代ともいわれる金銅仏の傑作で、相変わらず見事なお姿である。黒光りしているのは火災にあったからと説明していたが、そうではなく、毎年末に行われる御身ぬぐいのためであろうと私は思っている。火災にあったにしては、仏像の優美な線がいささかも崩れていないのである。見とれていると、Nさんが月光菩薩を見ながら「この仏像は女性がモデルでしょうなあ。」と言い出した。「え、ええ、確かにモデルはそうかも知れませんが、仏様は本来性別がないんですよ。」私はあわてて返答した。MBI諸兄は相変わらず探究心が旺盛である。それよりこの金堂で見るべきは薬師如来の台座で、四神が描かれている。四神は本来、道教に元を発するもので、仏像の台座にというのはおかしいのだが、仏教が中国を通って伝来する際にとりこまれたもののようだ。

金堂1



金堂2



薬師寺の裏手に回ると、もう12月というのに、もみじがきれいに色づいていた。もう一週間早かったら、もっときれいだったろう、と思わせる見事さであった。いつものことだが、見所を逃すと、徒然草の「花は盛りに、月は隈無きをのみ見るものかは」という一節を思い浮かべてしまう。 薬師寺裏門から北に細い道が伸びている。両側に薬師寺の塔中、古民家が並び、のどかな風景である。まっすぐに歩いていくと、唐招提寺の手前に、骨董屋があった。道端で古銭などを売っている。店番もおらず、勝手に代金を置いていくようになっている。相変わらず、大和路はゆったりとした時間が流れている。

大和路.薬師寺から唐招提寺への道



大和路の骨董屋



唐招提寺では、エンタシスの金堂と天平の仏像郡を楽しみにしていたら、なんと解体修理中ということで、金堂の解体した後をみることになってしまった。考えようによってはなかなか見ることの出来ない光景であるが、やはり物足りないものが残る。仕方がないので、鑑真が開いたという戒壇を見ることにした。戒壇は、僧になる資格を与える儀式を行う場所で、東大寺と唐招提寺にしかなかったもののようである。中をみることは出来ないので、門の外からのぞき見ると、石の基壇の上に、パゴダかストウパを連想させるおわんを伏せたようなものが置かれていた。紅葉は唐招提寺ではほとんど終わりかけている。薬師寺にほど近いのに、気候がちがっているような錯覚に陥った。

唐招提寺戒壇



唐招提寺から北に道をとると、左手に大きな池と小山のような古墳が見える。垂仁天皇陵である。西ノ京屈指のこの古墳は前期古墳としては珍しく平野部に築造され、広い周濠を持っている。濠の中ほどに田島守(たじまもり)の墓と言われる小さな島がある。田島守が天皇のために不老不死の薬を求めて帰った時、すでに天皇がなくなっており、悲嘆のあまり死んだとの伝説がある。

垂仁天皇陵



さあ、ここから西大寺駅まで一直線と思っていたら、道端に「菅原天満宮」という標識が見えた。どうも、このあたりは地名を菅原といい、菅原道真生誕の地らしい。地図をたどっていくと、小さな神社が見えた。この小さな神社が天満宮の大元になるようである。

菅原天満宮



西大寺は飛ばして、駅の近くで昼食をとる。田舎の野道から急に都会の町並みになるのは奈良の常で、歴史あるベッドタウンのよさかも知れない。 昼食後、一路、秋篠寺に向かう。道端に「こども110番」の電話やコーンが設置されているのは、先におきた奈良の児童誘拐殺人事件の影響だろう。奈良のような神仙の地にもこういう事件がおきるのは困ったものだ。

西大寺



秋篠寺は裏口から入るのが正解である。表は競輪場があり、ハイキングには趣がない。この寺は、佐保に多い荒れ寺のひとつで、鬱蒼と木がしげっているが、よく見ると手入れが行き届いていて、荒れ寺を売り物にしていることがわかる。本尊は薬師如来だが、その横にある東洋のミューズと呼ばれる伎芸天が美しい。この寺を訪れる人の大半はこの伎芸天が目的である。あまり知られていないが、この寺にはもうひとつ、古来、鎮護国家の役目があって、門外不出の大元帥法が伝えられている。大元帥明王を祀るこの呪法は、国家の危機にあたって用いると危難を救うといわれており、唐の時代に霊仙三蔵が日本に持ち帰ろうとして果たせず、弟子がひそかに日本に伝えたと言われている。

秋篠寺



秋篠寺を出たところで、神功皇后陵に立ち寄ることにした。この古墳は300メートルを越え、佐保では最大級である。古墳の前に立つと、ちょうど雨が降り出し、雨と競争で平城の駅にたどり着いた。

神功皇后陵




「完」


報告者 吉野
HP編集 伴野


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