MBI関西秋季講演会
(2003/07/20)

講師: 進藤晶弘氏(MBI19期)
メガチップス取締役会長、メガフージョン取締役兼代表執行役、大阪市立大学教授





はじめに

- 人生、挑戦する事が大事です。挑戦している限り、心は青春であり、生涯現役です-
11月15日(土曜日)ホテルグランヴィア大阪にてMBI関西秋季講演会が開催されました。進藤氏は、この日、大阪市立大学でのご講義のあとMBI秋季講演会に駆けつけていただきました。今回はこじんまりとした講演会となり、参加者は総勢13名でした。進藤氏の講演演台から参加者の最後の列までほんの数メートルの距離でした。大きなディスプレーに映った演者を遠くから見るような講演会とはまったく違い、またMBI出身者ということもあって、とっても講演者が身近に感じられた講演会でした。ご講演内容も非常にエキサイティングなお話で、ワクワクし、考えもさせられ、まさに面白くてためになる時間でした。質問も次々にでて、ホテルの会場の終了時間を30分近くオーバーしてしまいました。

MBIの参加者も会社の第一線から離れられるかたが多くなっていることと存じます。これからどんな人生を生きようかと迷っておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。そんな中で、「人生、挑戦する事が大事です。挑戦している限り、心は青春であり、生涯現役です。」という進藤氏のお言葉は、夢を持ち続けることがいかに大切であるか、また人生はこれからなのだと、非常に勇気付けられました。2度も起業を成功させたご自分の体験をもとにされていますので、非常に説得力がありました。進藤氏の話しでは、MBIで学ぶことにより、これまでの経営経験を総合的に体系化でき、ベンチャー起業するときも、また岐路に差し掛かったときもMBIで学んだことが役にたったそうです。MBI時代、吉良副学長から「MBIでは知識を伝授するというより、これから生きていく上での考え方を身につけてもらえることを意識してカリキュラムを組んでいます。MBIで得た知識はすぐに古くなってしまいますが、考えかたは今後の人生に活用できるからです。」といわれていたことを思い出しました。

進藤氏から「ベンチャーは若い人だけというのは違います。年配の方が若い人に負けるのは体力だけです。年配の方には豊富な人生経験があり、失敗にも学んでいます。ベンチャーは50歳からです。大事なことは心の年齢です。」と熱く語っていただきました。少し長いですが、講演会の内容をご紹介し、皆様に進藤氏のご体験、志をお伝えしたいと思います。

進藤晶弘氏のプロファイル
1963年三菱電機入社、半導体の製造に関わる
1973年リコー入社。半導体事業に関わる
1987年MBI参加 9期
1990年メガチップス創業、研究開発型ファブレス企業の草分けとして活動を開始(第一回目の起業)
1999年メガチップス店頭上場、メガフージョン創業(第二回目の起業)
2000年メガチップス東証一部上場
2001年メガフージョン ナスダック上場
現在、メガチップス取締役会長、メガフージョン取締役兼代表執行役、大阪市立大学教授


講演会の内容

ブッフェスタイルのランチの後、講演会はMBI関西支部成田会長から進藤氏の御紹介と御挨拶とで始まりました。


 成田会長の御挨拶




1) 昨年11月17日にMBI関西支部の立ち上げと「MBI in Kyoto」が開催された。
今回はじめての試みとしてMBI関西秋季講演会を開催した。
2) わが国における会社の開業率は2%程度、しかし、3.5-4%の廃業率がある。
しかし、開業の20%位が50歳代以上で占められており、明るい話題。
育成するインフラの整備も重要。
2月に中小企業挑戦法方が施行され、1円での株式会社が設立可能になった。
3) ベンチャーの機運は高まっている。
大先輩である新藤さんから背中を押してもらえたらと思う。
今からでも遅くはない。
若い人と比べ、年配の人は人脈、経験、知識、資金等全て持っている。
あとは体力だけ。
やりたいこと、これまでできなかったこと、達成できなかったことを実現できる。
これは社会の活性にも繋がる。新しいものに目を向けることにもなる。
4) 今日、「50歳を過ぎても起業は可能か」、面白い話が聞けると思う。



 進藤晶弘氏の御講演




1. ベンチャーを創業するまでの人生

1) 兄が京都の大学に進学しているために親からは高卒後就職して欲しいと言われる。
しかし高校の先生から「高校より授業料が安い大学がある」と言われ、親も納得。
これが地元の愛媛大学。授業料は確かに年4,000円。

2) 愛媛大学なら自宅から通えた。
化学に進んだ理由は小さいとき化学に感動したことがあるため。

3) 愛媛大学工学部工業化学科に進学。工業化学科では第一期生。
しかし第一期生というのはまったくスクラッチやらなければならない。
指導教官からはやりたいことをやれといわれた。
実験の環境も自分で作った。
自分でやって、失敗して、修復するという学生生活であった。

4) 就職の時になって、自分は住友化学や帝人や東レに行きたいと思った。
しかし教授からは「これらの会社には真面目に勉強した学生にチャンスをやりたい。
進藤には化学屋が珍しい電機会社に行け」と言われた。
化学会社に入社していたらまったく別な人生になったと思う。

5) そんなわけで三菱電機に1963年(昭和38年)に入社した。
配属の希望は研究所で燃料電池だった。
しかし既に配属は決めていると言われ、京都製作所勤務となった。
もし燃料電池の研究部署に配属になっていたらその後の私はどうなっていたかわからない。
燃料電池は今になってようやく日の目をみてきた分野。

6) 当時は東京オリンピックが目前で、カラーブラウン管の蛍光体の研究を始めており、
光センサー(化合物半導体)の研究を開始することになった。

7) この京都製作所でも第一期生となった。
しかし会社はこの分野から1年後に撤退することになった。
次の配属が決まるまで何もすることがなかった。
仕事がなくなって最初の1ヶ月は専門書を読んだ。
次の1ヶ月は小説を読み、すぐに週刊誌となった。
その後は昼寝の生活で、会社人生でどん底の時代だった。
目標のない生活だった。

8) 会社に辞表を書いて提出した。
会社は驚いた。
三菱を辞めたいというような社員は考えられなかったようだ。
技術を買いたいという会社があり、ミノルタに出向となった。
半年間他人のメシを食った。

9) 三菱電機ではクリーンルームを担当していたが、
リーダーをやっていると他の部署に移動させてくれないこともあり、38歳の時にリコーに移った。
一度辞表を書いているので辞めることには抵抗はなかった。

10) リコーに移ったが、経験者は自分ひとり。
そのため部下のトレーニングに米国に連れて行ったり、工場の設計も自分で行った。

11) 当時リコーの半導体は誰も使ってくれなかった。
それで自分で米国も含め注文取りに走った。
顧客に任天堂があった。
ファミコンの企画を任天堂に出した。
事業は急激に立ち上がった。
3年後には黒字になった。
10年後には1,000人の社員、300億円の事業規模になった。

12) リコーでは役員一歩手前までいった。
しかし1990年1月にリコーを辞めようと思った。
2月には50歳になるところだった。

2. ベンチャー創業までに大企業のなかで学んでいたこと

1) これまでの会社人生では実際社内ベンチャーであり、独立ベンチャーといえた。
やっていないのは資金繰りくらいだった。

2) 自己責任というのは起業家精神と言える。

3) ICの専門分野を三菱電機で10数年やっていた。
リコーでは実際は経営をやっていた。

3. MBIから学んだこと

1) 経営を無意識でやっていた。
1987年のMBIでの経験は、総合的に体系化できたことだった。

2) MBIでは「座禅を組んでいた」。
「英語は下手で、MBIでは劣等生だった」。
しかし、その反面、自分にはMBIでの本質が残った。

3) 1980年代は日本の半導体は世界を席巻していたが自分には逆に危機感があった。

4) MBIの講義のなかで、吉良副学長の講義に「米国産業空洞化論」があった。
しかし自分は「日本の方こそ危機的である」と反論した。
理由は米国ではソフトウエアーよりである。
システムの応用、顧客、アルゴリズム、アーキテクチャーに強い。
これは技術・応用力、人材(創造性・理論)が必要でベンチャー型と言える。
日本はLSIの生産、生産技術、システムの機器というハードウエアーよりの分野に強みを持っており、
資金、生産力、工場・生産技術(効率)型で大企業型と言える。
日本が競争に負けたら産業は疲弊すると感じた。

5) このセッションは”one of the best sessions”といわれ、自信になった。
MBI同期からの無言の励ましとなった。

6) 思えば当時からメガチップスのような会社が必要という潜在意識があったと思う。

7) MBI9期の人たちは親友であり、彼らを誇りに思っている。経営の集大成がMBIであった。

4. 半導体事業とsystem LSIについて

1) 日本の半導体ビジネスは1970年代の価値観で進んだ。
1995年〜1996年には生産があふれ壊滅的になった。
今残っているのは日立。
しかしインテルの資本が入っている。

2) 時代認識が間違ったら大企業でも生き残れない。
どれだけ先を読むか。

3) System LSIというのは当時はなかった考えだった。
日本型エレクトロニクス産業構造の問題解決に挑戦した。

5. ベンチャー創業

1) 創業では全て否定してやった。
研究開発型として、工場は持たなかった。
System LSIに特化した「研究開発型ファブレスハイテクベンチャー」がメガチップスである。
第一回目の挑戦だった。

2) 独立した1990年というのは後から振り返るとバブル期だった。
新会社のオフィス確保のため歩いて探した。
不動産のリストと言われても自宅以外何もない。
不動産がないとオフィスを貸してくれない状態だった。

3) 創業メンバーの6名は日々の業務場所の確保に苦労した。
あるときは吹田市の公民館を借りた。
あるときは川西市の公民館だった。
会社名では会場を貸してくれないのでガールスカウトのOB会とかいろいろの名称を使い、会場を借りた。
2ヵ月半ホームレスの心境だった。
挫折寸前までいった。

4) 自宅で業務を行うことは惨めであり、したくなかった。
この経験から株式を均等に分けてみんなの会社にした。

5) ようやく吹田市で、駅から歩いて20分という最も不便なところに事務所が見つかった。
大家さんは半導体の会社で、われわれの会社のことをわかってくれた。

6) 当時ベンチャーはいかがわしい、危険な存在と見られていた。
銀行口座開設が一番苦労した。
都市銀行はこの新会社の口座開設を皆断った。
たまたま江坂駅の大和銀行の支店長が会ってくれた。
口座を作ってくれた。

7) 注文生産のcustom LSIで2000年には100億円の規模の会社にしたいと思った。
会社を始めたが、過去のコネは5社くらいだった。
バブルがはじけ、ビジネスを継続できたのは任天堂だけだった。
8) バブル崩壊で新会社に危機が訪れた。
当時30名ほどの社員がいた。
下請けでもいいから注文を受けようという意見の社員もいる反面、
若い社員からは潰れてもいいから自分たちの道を行きたいという意見もあった。
会社存続の危機だった。

9) ここでMBIで学んだことを生かした。
「経営理念」、「行動指針(信条)」、「経営原則」をつくることにした。
みんなに自分の意見を書いてもらった。2日間話をした。
「経営理念」、「行動原則」は比較的スムーズに決まったが「経営原則」は丸一日の議論となった。
会社の発展と社員にフォーカスし、stock optionを取り入れた日本で最初の会社となった。
パイオニアとなった。

10) 「自主独立で発展する、他から資本は入れない」、「自己責任」とした。
しかし3-4名が断り、会社を辞めた。
大企業に入った人もいたし、自分で事業を始める人もいた。

11) 1998年には売り上げが300億円を超えた。
このとき引く決心をした。
2代目には松岡氏を指名した(何故この方を選んだかは質問の7の欄を参照してください)。
遣り残した仕事として一部上場があった。

6. 二回目の挑戦として株式会社メガフージョンの起業

1) ビジュアルコミュニケーションの時代。
同じ事を10年やったら衰退する。
メガチップスは過去の成功。
21世紀はいずれはゲームなどもnetworkにぶら下がる時代とみている。

2) 電子メールはある。
しかしこれで何が伝えられるか。
ネットワーク上でのサービスが主導する時代のハイテクベンチャーを取り上げた。
これは従来型のITでは出来ない「想い、感性、文化、匠、安心」が伝えられる
新しいITのパイオニアになる。これは映像。

3) ITはhigh techではない。
道具として使いこなすだけ。

4) これまでは米国に徹底してやられた。
OSはマイクロソフトが握っている。
ルーターはシスコ、サーバーはサンマイクロ。
日本ではITをイットといっていた有力政治家もいる。
こんなレベルでは勝てっこない。

5) それで携帯を使ったIT、しかも映像を考えている。
しかし既存勢力と真っ向から戦うことになる。
たとえば放送局。
機材で1,000万円は安いという感覚。
映像コンテンツはチャレンジしなくてはならない。

6) メガフージョンは色々なことを考えている。
遠隔教育、デスクからの会議、赤ちゃんを遠くからみて安心を得ることなど。

7. ベンチャー教育に関して

1) 現在大阪市大で教鞭をとっている。
大学のほかの教官とは教育の考え方で意見を異にすることがある。

2) 企業家の原動力としてリーダーシップとマネジメントスキルがある。
マネジメントスキルは論理的であり、大学では教えることができる。
このスキルを追っていくと官僚的になる。
リーダーシップとはホットなもの。
感動させて引っ張っていくもの。
各自が磨くもの。

3) copyはartではない。
別の人がメガチップスをやったらまったく別のものができたと思う。

4) 起業家を志す人には半年くらいアートを教えるべきだ。
大阪市大ならこのようなカリキュラムを作ることは可能。
起業家は一種のアーティスト(芸術家)。

5) 自分は経験から大学は失敗をする確率を少なくすることを教えている。
しかし大学ではそのようなことは他の大学で教えるものと考える教官もいる。

6) どのような方向性がいいかは学生が選択すればいいと思う。
自分に責任があるのは大学院20名だが、今日も100名の聴講者があった。
自分の考えは学生に受け入れられていると思う。

8. 参加者からの質問

1) ベンチャー創業する場合、過去これまで会社でやってきたことの継続性をどのように考えたらいいのか
 (答え)継続性というのは必ずしも重要なことではない。
一番のポイントは自分は何をやりたいかである。

2) 色々なところで同じ質問を受けているかもしれないが、ベンチャーには失敗が付きまとう。
失敗すればこれまで会社人生で蓄積したものを全て捨ててしまうことにもなりかねない。
失敗したらゼロになる。どう考えるか。
 (答え)成功が50%とみたときに失敗が50%ある。
やらなければ成功の確率はゼロである。

3) ベンチャーには判断を間違わないための情報が必要ではないか。人脈も必要ではないか。
 (答え)判断のヒントというのはない。
人脈とはもといた会社の人脈ではない。
もとの会社はあまり役に立たない。嫉妬で見られることが多い。
人脈で大事なのは社外の客である。
応援してくれる人脈が大事。MBI9期の人は人脈である。
判断材料としての情報に関しては、先のことは分からない。
分かっていたら自分は経済産業大臣になっている。

4) 迅速な決定をとらなければならないことが多いと思うが朝礼暮改はあるか。
 (答え)常に朝令暮改はある。ただ決定に対し説明責任はある。
こっちの方向に行きたいと思うとき、「どう思う?」ときいている。
面子にこだわり、引くに引けなくズルズルいくのが最悪。

5) どのような失敗例があるか。
 (答え)いつも社員に言っていることは50%の失敗は可としている。
残りの50%に大きな成功がある。
失敗の一例としては企業文化がある。
弊社は販売が弱点であり、国内だけではすまないので、大手商社を入れてjoint-ventureを作った。
これは最悪だった。
我々が1ヶ月決定するのに商社側では半年もかかった。
また、ある会社と合併することになった。
その会社は同族会社。
我々はクリーンな経営をベースにしている。
価値観が違った。

6) 企業家について、これをやりたいという思いが募るまではじめないことも重要。
私は企業家ではない。
本物の企業家なら若いときから始めている。

7) 後継者を選ぶのに考えたことは?
 (答え)10年同じ事を続ければ衰退の道となる。
これまでと違った目を目指すことが重要。
世間では「前社長の路線を踏襲し…」と後継者が先任者の路線を継承するというのが多いし好まれるかもしれないが、
私は否定するのが大事と思う。
自分が後継者に選んだ松岡氏は一番反対してくれた人。
自分が10言うと5つは無条件で受け入れてくれた。
3つは、目的は同じだが方法論が異なった。
2つは真っ向から反対した。
あとで松岡氏が言っていたように、やらなくてよかったと思うことがある。
「彼の方が安心だ」と思った。
それで後継者に指名した。
自分はグループ戦略は立てている。相談には来る。しかし自分をCEOとは言わない。
Operationは任せている。やり方は任せている。
8)これから先は10年刻みの命題がある。
今60歳代はマッカーサーの心境。「老兵はただ去り行くのみ」。
第一線からは身を引く。そのため大学でも教えている。
ベンチャーとは金儲けではない。志でやるもの。

最後に進藤氏からのメッセージ

1. 進藤氏が尊敬する坂本竜馬の言葉 
「世に生を得るのは、事を成すことにあり。事を成すにあたっては、人の真似をしてはならぬ。」
「衆人、皆善をなさば、我一人悪を為せ。天下のことみなしかり」
「世の中の人は、何とも言わば言え。我がなすことは、我のみぞ知る。」

2. 起業家は「一種のアーティスト」です。
自分の「志」にもとづき、思いを込めて「築きたいベンチャー像」を描くことです。
3. 人生、挑戦することが大事です。
挑戦している限り、心は青春であり、生涯現役です。





報告者 山内(MBI29期)


[マル知ネット・トップページ] [関西イベント・トップページ]