桑原節雄さんのイースター島 タヒチ見聞録

桑原 節雄(4期)

20007年11月にタヒチ経由でイースター島に行きました。事の発端は、体力が落ちたら行けそうにないところに、まず行こうと思いたったことです。ブラジル勤務時代に南米で行き残したところが幾つかあり、女房に2箇所提案しました。

ひとつがイースター島です。謎めいた島で大きな石像モアイが興味をそそります。もう一つがガラパコスです。ダーウインが進化論に着想した島です。

女房は、動物には関心がないと言い、あっさりとイースター島行きが決まりました。わずか1週間の旅でしたが、アジア・中国への旅に比べると高価な旅でした。タヒチの高物価 競合路線のないフライトの為です。それでも十分満足のゆく旅でした。私と女房の見聞録を纏めました。

イースター島への道
イースター島行きはチリのサンチャゴからしかないと思っていましたが、調べてみるとタヒチ経由の方法がありました。 タヒチといえば、ゴーギャンの愛した場所です。期待を膨らませての出立となりました。関西空港からタヒチまで11時間のフライト、タヒチの町で10時間ほど時間をつぶして深夜便でイースター島に向かいました。タヒチからは6時間です。

フライトのこと
初めての国に行くのに知らないフライトに乗るのは緊張します。過去に機内に入った途端に、このフライトだと何時墜落してもおかしくないと妙な確信を持ち、到着するまで緊張の連続であったことが再々あります。

タヒチまでは、エアータヒチヌイでした。乗った途端に安心しました。真新しい最新装備のフライトでした。ご丁寧にファーストクラス・ビジネスクラスの席もたっぷりありました。流石に新婚旅行のメッカに行くフライトです。勿論 私ども夫婦は新婚でもありませんし、金持ちでもありませんのでエコノミーに乗りましたがーーー。機内でパンフレットを見ると太平洋のベストエアーラインとベストキャビンに選ばれているとありました。

タヒチからは、ランチリです。昔ブラジル勤務時代によく乗った飛行機で懐かしくもありました。出発してから長い時間、乱気流で随分ゆれましたが、これまた真新しいフライトで過剰な心配をしないですみました。イースター島の飛行場は、米国NASAより人工衛星の緊急着陸地に指定されているとのことで、まずは安心して到着しました。

イースター島の場所
タヒチとサンチャゴの略中間にあります。イースター島には、その昔西暦5百年ごろタヒチ方面からポリネシア人がやってきたといわれています。タヒチからの距離は、4千キロメートルの距離です。小舟でよく遠距離を航海したものだと感心します。

余談ですが、ハワイ・ニュージーランド・イースター島を結ぶ三角形の地域をポリネシア圏と言うそうです。その昔インドネシア辺りを出発したポリネシア人がこの地域に分散したのだそうです。太陽・月・星・海流を頼りに航海を続けたのでしょうが、その英知に感心しロマンを感じます。日本人にも耳慣れたトンガ、フィジーもこの域内です。

今でもイースター島、タヒチ、ニュージーランドの人達は、現地語でコミュニケーション出来るといいますから相互に往来があったのでしょう。驚きです。

イースター島の名称
この島は 3つの名前を持っています。英語のイースター島は、西洋人(オランダ人)がこの島に始めてきた日がイースターであったからです。現地語ではラパヌイ、そしてスペイン語では、パスクアです。

イースター島寸描
小豆島位の大きさの島です。まさしく海の孤島の風情です。遠い昔 火山噴火で出来た島です。ですから海岸線も溶岩石で覆われています。港らしい港はありません。川もありません。

植林の結果、村の周辺は樹木がありますが、島全体は草原です。乾季と聞いて行きましたが、晴れたり雨が突然降ったりめまぐるしい変化です。天気予報はまず当たらないと現地ガイドさんが言ってました。強い風が吹いていて時には日本の台風時を想わせる強風が吹きます。救いは気温です。最低気温は10度位にまで下がる時があるようですが、そんな時でも日中の最高気温は28度はあります。島の3分の2が国立公園です。

モアイ像
海を背に立つモアイ、うつ伏せに倒れたモアイ、製作途中に放置されたモアイ―――とイースター島には、1千体ほどのモアイ像があります。高さは、5メートルから大きいものでは20メートルあります。西暦700年代(奈良時代)から1770年頃(江戸時代中期)にかけ作られたとのことです。

モアイ像は、全てうつ伏せに倒されていましたが、現在は40体が復元され石壇の上に立っています。腰から上の石像に赤みかかった石の帽子のようなものをのせています。この復元には、日本企業も貢献しています。

1978年に大発見がありました。モアイの眼が見つかったのです。白目の部分は白珊瑚、瞳の部分は赤色凝灰岩が使われている事が判りました。現存する唯一の眼です。この荒涼とした土地で何をモアイは考えているのでしょうか。想像するだけでも楽しいものです。



−何のためにつくられたのか−
モアイ像は、海を背にして住居地を向いて立っていました。住居地といっても石垣で囲んだだけの粗末なものですが―――。そこで、部族の守り神としてつくられたというのだろうと推測されています。部族の権威を示す為にも、大きさを競ったのではないでしょうか。

例外的に1箇所だけ海に向いているモアイがあります。これは海の彼方の自分たちがやってきた故郷を見ているのではないかと言われています。

−如何につくったか−

モアイの製作現場があり、製作途中のモアイ像が沢山残っていますので作り方は、大体わかっています。溶岩石の岩山を削って像をつくり、完成後それを立たせたとのことです。溶岩石は比較的やわらかく、黒曜石などの固い石で削ることが出来たのでしょう。

−如何に運んだか−
製作現場から据え付ける場所までは相当な距離があります。モアイを如何に運んだかは謎の中で、学者が色々の説を述べていますが、決め手がありません。数トンもありますから容易な運搬でなかったことは事実です。

−何故倒されたか−
1722年(江戸時代中期)最初にオランダ人により島が発見された時、次いで1770年にスペイン人が訪れた時にはモアイ像は健在で立っていました。ところが1774年にクックが訪れた時には多くのモアイ像が倒されていました。わずか4年の間に何かがおこったのです。

定説は、人口増加で食糧危機が発生し部族間で戦いが始まったということです。
相手を叩く為には、まずその守り神であるモアイを倒す。しかもじっとにらんでいる
目線を妨げる為に、うつ伏せに倒したというのです。
相当ひどい食糧危機だったようで 人を食す風習があったそうです。
後からイースター島にやってきた耳長族が島を支配し、短耳族を酷使してモアイを作らせたため短耳族が反乱をおこしたという節もあるようです、

消された歴史
謎のイースター島 神秘のイースター島として観光客を集めていますが、それは、その歴史が消されたということの結果です。
悲劇は、この島の人達が奴隷としてつれていかれたことに始まります。
最大の奴隷狩りは、1862年(江戸末期)にペルーにより行われました。
島民の殆どがつれていかれ過酷な労働で殆どの奴隷が死に追いやられました。
その後 フランス人の暴君が君臨し、1877年には病気と虐待で島民は111人にまで減少してしまいました。 その結果口頭で伝承されてきた島のことは、全て消えてしまいました。 ロンゴロンゴという文字も持っていましたが、それを読める人も死に絶えました。
その後の悲劇はキリスト教の宣教師です。
彼らは、ロンゴロンゴで書かれた木片を邪教の教えとして焼却してしまいました。
若干残った木片だけでは解読もままならぬことになりました。
今手掛かりになるのは、この地を訪れた西洋人の記録が唯一のものです。
住居跡から推しますと石器時代の原始人のような生活をしていたようです。
しかし、あれだけの重量物を運ぶ智恵があったこと、文字を持っていたことを考えると謎がますます深まります。

バンガロア村寸描
今島民は4千人程度です。 島民はチリ人との混血が殆どです。 従ってポリネシア人といってもタヒチの純粋なポリネシア人とは随分違います。
チリに所属しますので、現地語のパラヌイ語とスペイン語が使われいます。
昔は島に点在し暮らしていましたが、今は、この村に全て集まって暮らしています。

−のんびりした観光地−

観光客は年間4万人くらいで、日本人観光客は年間4千人程度のようです。
タヒチの十分の一程度です。
観光が産業のすべてといえますが、のんびりしています。 
土産の売り子もじっと客を待っています。 あの東南アジアの押し寄せるしつこい売り子の姿は見られません。
道を歩いていると笑顔で挨拶してくれる人もいます。
「夜暗くなって歩いても大丈夫」とガイドは言ってました。
島民は皆知り合いのようですし逃げられない孤島ですので、この治安が守られているのでしょう。

−レストラン−
レストラン―といっても粗末な建物です。 暖かいところですから粗末な建物で
すむのでしょう。 それに建築材料は全てチリから持ち込まねばなりませんので
家を建てるのは大変だそうです。
海の見える良さそうなレストランを選んでは、オープンテラスで食事とワインを楽しみました。 チリのワインで味はいけます。 女房との二人旅の気楽さを満喫しました。

−草木の香りに感激−
イースター島に降り立った時 ブラジルと同じ草木の香りがして感激しました。
日本の草木の香りとは相当違います。
こんな離れ島で何故ブラジルと同じか不思議ではありますが、私にとっては故郷に
戻った心境でした。

−島民優遇策−
イースター島で不動産を取得したリ事業が出来るのは、この島生まれの人に制限されています。 最近現地語ラパヌイ語が劣化してきているので義務教育の科目に組み込まれたそうです。 本国に留学している学生には年1回軍用機で送り迎えしてくれるとのことです。 
無料に近い値段のようです。 

−野犬うろうろ−
野犬がうろうろしています。 子犬の頃、家で飼っていたのが大きくなって放置されるとのことでした。 
ですから犬も人間に慣れていますし島民も上手にあしらっておるのは驚きでした。
教会に行ってみましたら戸は開け放しで牧師が説教をしてました。その中を野犬が行ったり来たり、何とものどかではありますが、始めてやってきた宣教師はカルチャーショックで大変だったろうと思いました。 どのようにして人心をとらえていったのか宣教師のたくましさには敬服しました。

−ホースレンタル−
馬のレンタルがありました。 馬を借りて島を走るのだそうです。
確かに草原ですから気持ちは良さそうです。
ガイドに注意を喚起されました。「ここの馬は馬小屋にもどる風習がありません。
放し飼いです。 ですから道に迷ったら大変です。 馬はどこに帰るべきかは知りませんので乗っている人が道を知らないといけないのです」

タヒチ雑感

−入国審査もカップルが原則−
飛行場での入国審査は、夫婦でも一人一人が別々に受けるものと思ってました。
ところがタヒチでは、二人連れは入国審査官の前に全てカップルで進みます。
勿論審査官は一人一人の書類しか審査出来ませんがーーー。
真相はわかりませんが新婚旅行のメッカにきたという実感がわきました。
私どもは新婚ではありませんが 勿論二人一緒に審査官の前に進みました。(あまり実益がないことではありますがーーー)

−物価高―
始めのショックは物価高です。
町の大衆カフェテリアでコーラを頼みましたらなんと7百円。 Tシャツが4千円。
ホテルの朝のビュッフェが5千円。
ゴーギャン博物館だけはいかなくてはとツアーに参加しましたが、そこで会ったアメリカ人は「蟻地獄に落ちたようなものだ」とぼやいてました。
ここはフランス領でユーロに現地通貨が連動している為のようです。
イースター島の10倍の年間40万人が訪れるそうです。
最大が米国人とのことですが、通貨の弱い国の人はいけなくなりそうです。
私は、計画段階ではもう少しタヒチにいたかったのですが、タヒチと関西空港のフライトは週1便しかなく2泊となりました。 しかし結果オーライでした。
ここに長居したのでは、財布が持ちません。

−タヒチ人−
タヒチ人は、茶褐色で男女とも大柄で立派な体格をしていました。
ホテルのポーターは、上半身裸で刺青をしています。(最近の若い人の刺青は本物かペイントかはわかりませんがーーー)
なんとなくゴーギャンの絵に登場する人々を彷彿とさせます。
私は、ポリネシア人は小柄と思い込んでいましたが大間違いでした。
文明に毒された人も結構いました。 相撲取りのように太った人々です。
小さい頃からコカコーラを飲み甘いものを沢山摂り続けたためにおこる肥満だそうです。
健康に良くないとのキャンペーンがされているそうです。

−ゴーギャン美術館−
町の中心部から1時間ほど離れたところにあります。
熱帯の樹木に囲まれた質素な美術館でした。 ゴーギャンの感動の一部でも味わえるかと期待して行ったのですが、ゴーギャンの絵のコピーが飾ってある程度でいささか肩透かしでした。 折角きたのだからとゴーギャンの絵がプリントされたTシャツを買おうとしましたが
値札を見ただけであきらめました。

−町の商店街−
売る気があるのかないのかわからない人達です。 公共市場に行ってみましたが、こちらに目を向けようともしません。 偶々入った店の店員(西洋人で英語が通じました)も私達との雑談にゆっくり付き合ってくれました。
町の店は、5時にはクローズされます。
街中は住むところではなく皆大急ぎで郊外の家に帰るのだそうです。
確かに5時半位の道は車が数珠繋ぎでした。
リゾートホテルとマリンスポーツ以外には楽しみがないところのようです。

−新鮮な感動−
感動した事がひとつ。 信号がない横断歩道で車の行き過ぎるのを待ってましたら、車が止まって手でわたれと合図してくれました。 「そこのけそこのけ車が通る」の車優先の関西から行きました私にとっては新鮮な感激でした。 
イースター島でも道を渡ろうとおずおずしておりましたら車が止まってくれました。 
この点は日本は大変な後進国です。

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